モスクワカヌ2021。
書くお仕事、募集中

舞台の脚本以外にも、広範囲に「書く」お仕事いたします。
委細応相談。

これまでの上演履歴やプロフィール→
https://note.mu/mosukuwakanu/n/n571c0f021f6e
台本公開中→モスクワ書庫
2021年の予定
2021年2月10日(水)~23日(火祝)
第一回Crossroad短篇戯曲祭@吉祥寺シアター
公演の詳細はこちらから→http://www.tfactory.jp/data/t_crossroad1.shtml
脚本として参加
モスクワカヌ脚本/西村俊彦出演 一人芝居「コカ・コーラ・ソルジャー」
Youtubeにて映像公開中

映像はこちらから→http://youtu.be/KfxFiNznPL0
ラジオ出演&ラジオドラマ書き下ろし
夢かな放送局
2014年10月27日配信 vol59
パーソナリティ:滝沢じゅん 西脇圭 ゲスト出演:辻村優子 モスクワカヌ
2014年11月3日配信 vol60
ラジオドラマ「告白」(約10分) 出演:滝沢じゅん 西脇圭 辻村優子
2016年8月15日配信 vol60
ラジオドラマ「通り雨」(約10分) 出演:滝沢じゅん 西脇圭 山本詩織

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2021/01/09 ゆらゆら世界の枠。
私の発達障害の特性の1つに、ルーティンを好み馴染みのない場所や事柄を避けがち、という特性がある。
例えば最寄駅から行きたい場所があったとして、例え近道だとわかっていても知らない道は通らないとか、便利な駅が別にあるのに遠回りになる最寄駅からのルートで行ってしまうとか。
小さいといえば小さいことだけど、日常生活の至るところに細かく顔を出す特性なので、積み重なるとけっこう時間や機会をロスしているのだと思う。
普段は時間のロスより自分の安心感のほうを優先するので、自分1人ではこの枠から抜け出すことは困難なのだけど、誰かと一緒に行動する時は自分の安心感だけにこだわることが難しい時もあって、友人との折衷や、相手に譲ったりすることで、自分のルーティンから逸脱する機会がある。
ルーティンへのこだわりの強さは人や事柄それぞれで、私の場合ルーティンが崩れても激しいパニックはあまり起こさない(こだわりの対象とこだわりかたによっては起こる)
ルーティンや予定が崩れることに、入り口ではすごい気持ちの反発があるけれど、長年の経験から身を任せることで自分1人では絶対しない経験とか出会いとかがあって悪くない、ということを知識で知っているので、パニックが酷くなければあまり抵抗しないようにしている。
すぐ近くにあったのに馴染みがなくて使えなかった駅を、友人と一度使ったら使えるようになるとか。
人に教わって通ってみた道で、気に入った場所を見つけるとか。
よく知らない城の天守閣にのぼるとか。
自分の通わなかった大学の講義を聞きに行くとか。
小さいといえば小さいことだけど、私1人では見れなかった景色を見たり、知らなかったことを知れるのは嫌いじゃない。
私にとって、世界はいつも枠の中にこじんまりと安心安全で、変化やイレギュラーの少ないものであって欲しい。
その一方で、自分のその枠が拡がることにも、違和感と同じくらいの爽快感があることを知っている。
知ってはいるけど、自分の生活や世界の秩序が乱されることにはパニックからの怒りでこたえてしまう。
私が守りたい世界と、その外側の無法地帯(と私には思える)との境界は、つねにユラユラ定まらない。
我ながら難儀な自分と思うのだけど、その自分とこれからもこの世界で付き合っていかなくてはならないから、なるべく上手くやっていきたいと思う。
例えば最寄駅から行きたい場所があったとして、例え近道だとわかっていても知らない道は通らないとか、便利な駅が別にあるのに遠回りになる最寄駅からのルートで行ってしまうとか。
小さいといえば小さいことだけど、日常生活の至るところに細かく顔を出す特性なので、積み重なるとけっこう時間や機会をロスしているのだと思う。
普段は時間のロスより自分の安心感のほうを優先するので、自分1人ではこの枠から抜け出すことは困難なのだけど、誰かと一緒に行動する時は自分の安心感だけにこだわることが難しい時もあって、友人との折衷や、相手に譲ったりすることで、自分のルーティンから逸脱する機会がある。
ルーティンへのこだわりの強さは人や事柄それぞれで、私の場合ルーティンが崩れても激しいパニックはあまり起こさない(こだわりの対象とこだわりかたによっては起こる)
ルーティンや予定が崩れることに、入り口ではすごい気持ちの反発があるけれど、長年の経験から身を任せることで自分1人では絶対しない経験とか出会いとかがあって悪くない、ということを知識で知っているので、パニックが酷くなければあまり抵抗しないようにしている。
すぐ近くにあったのに馴染みがなくて使えなかった駅を、友人と一度使ったら使えるようになるとか。
人に教わって通ってみた道で、気に入った場所を見つけるとか。
よく知らない城の天守閣にのぼるとか。
自分の通わなかった大学の講義を聞きに行くとか。
小さいといえば小さいことだけど、私1人では見れなかった景色を見たり、知らなかったことを知れるのは嫌いじゃない。
私にとって、世界はいつも枠の中にこじんまりと安心安全で、変化やイレギュラーの少ないものであって欲しい。
その一方で、自分のその枠が拡がることにも、違和感と同じくらいの爽快感があることを知っている。
知ってはいるけど、自分の生活や世界の秩序が乱されることにはパニックからの怒りでこたえてしまう。
私が守りたい世界と、その外側の無法地帯(と私には思える)との境界は、つねにユラユラ定まらない。
我ながら難儀な自分と思うのだけど、その自分とこれからもこの世界で付き合っていかなくてはならないから、なるべく上手くやっていきたいと思う。

2021/01/08 庭のレモン。
2020/01/07 緊急事態宣言アゲイン。
今日のニュースでは、一都三県に緊急事態宣言がアゲインして、アメリカではトランプ元大統領の支持者によるクーデターが起こった。
世の中が物騒だと、ついつい自分も暴れた方がいい気がして、Amazonでバトルアックスとかチェーンソーとか検索してしまう。
有名人が自殺をすると、その後しばらく自殺の件数が増えるというけれど、大掛かりな暴力や死にもウイルスと同じような感染力があると思う。私はメンタルの健康値が低いゆえに攻撃性が高いので、死と暴力のウイルス感染には気をつけなくてはいけない。
ベッドにこもる代わりにネットを遠ざけて、仮想空間での派手なドンパチや危機ではなく、生活のために今動かしている手を見る。手を動かす。
今この時に、ネットもTVもなく、人間も少ない場所で羊とかおいながら、風の噂に世界の騒がしさを聞くだけの人類もきっといると空想する。
自分のものでない怒りや恨みに引っ張られないように、不安や恐れを煽られないように。
それはそれとして、バトルアックスは欲しいものリストに追加した。
世の中が物騒だと、ついつい自分も暴れた方がいい気がして、Amazonでバトルアックスとかチェーンソーとか検索してしまう。
有名人が自殺をすると、その後しばらく自殺の件数が増えるというけれど、大掛かりな暴力や死にもウイルスと同じような感染力があると思う。私はメンタルの健康値が低いゆえに攻撃性が高いので、死と暴力のウイルス感染には気をつけなくてはいけない。
ベッドにこもる代わりにネットを遠ざけて、仮想空間での派手なドンパチや危機ではなく、生活のために今動かしている手を見る。手を動かす。
今この時に、ネットもTVもなく、人間も少ない場所で羊とかおいながら、風の噂に世界の騒がしさを聞くだけの人類もきっといると空想する。
自分のものでない怒りや恨みに引っ張られないように、不安や恐れを煽られないように。
それはそれとして、バトルアックスは欲しいものリストに追加した。
2021/01/06 後厄払い。
今年1年は後厄の年だ。
昨年はコロナという大災厄があったけれど、これは世界的なことだった。
個人的な話で言えば、本厄らしいことは特になかった気がする。2020年の年始は死にそうなメンタルだったけれど、むしろ年が明けてから落ち着いたし。
本厄よりも後厄のほうが怖い、という噂もきくので、一応厄払いへ行った。「神様」を信じているのかと聞かれると微妙だけど、植物とか虫とか動物とかが地球で生きてるのと同じような感じで、目には見えなくてもナニかしらはいるのだろうと思っている。それこそ、コロナウィルスが目には見えないのに、昨年からずっと世界中の人々の行動や生活を支配しているように。
たぶん、コロナにむかって「私には感染しないでください」と祈ってもきいてくれない。
神様にむかって「今年1年、また健やかに皆と生きられますように」と祈っても、きいてくれないかもしれない。
祈りが叶えられると思って手をあわせる人は少なくて、私もふくめほとんどの人は、叶えられる確信のないまま、なんならちょっと参拝する自分を滑稽に感じながらお参りやお祈りをしているかもしれない。
それならなぜ祈るのか、あらためて考えると難しい。
だけど一度だけ、もしかしたら祈りはどこかに通じてるかもしれない、と思ったことがある。
数年前に家族でロシアを再訪した時。
セルギエフ・ポサートというモスクワ郊外の寺院で、私と家族は、ロシアに住んでいた頃お世話になった人々のために祈った。
本当は再会も目当ての旅だったのに、探してみたらすでに亡くなっていた人達。
ろうそくをもらって、その寺院の中の祭壇でその人たちを想って祈った時に、それまで晴れていた空が突然大雪を降らして、ホテルの窓から小さな虹が見えた。まるでその人達が挨拶に来てくれたみたいに、雪は私達が寺院を離れると降りやみ、虹は私達が気づいた後でゆっくりと消えた。
(詳しく書いた記事はこちら→http://mosukuwakanu.blog122.fc2.com/blog-entry-648.html)
ただの偶然だと言ってしまえばそうだけど、私はその時起きたことを今も大切にしている。
雪や虹を見せてくれたのがあの人達だったらいいなと思っている。
そういう希望がもてるから、私はいまだにお祈りをするし、叶いますようにと、どうせ叶わないの間でフラフラ、フワフワしている。

昨年はコロナという大災厄があったけれど、これは世界的なことだった。
個人的な話で言えば、本厄らしいことは特になかった気がする。2020年の年始は死にそうなメンタルだったけれど、むしろ年が明けてから落ち着いたし。
本厄よりも後厄のほうが怖い、という噂もきくので、一応厄払いへ行った。「神様」を信じているのかと聞かれると微妙だけど、植物とか虫とか動物とかが地球で生きてるのと同じような感じで、目には見えなくてもナニかしらはいるのだろうと思っている。それこそ、コロナウィルスが目には見えないのに、昨年からずっと世界中の人々の行動や生活を支配しているように。
たぶん、コロナにむかって「私には感染しないでください」と祈ってもきいてくれない。
神様にむかって「今年1年、また健やかに皆と生きられますように」と祈っても、きいてくれないかもしれない。
祈りが叶えられると思って手をあわせる人は少なくて、私もふくめほとんどの人は、叶えられる確信のないまま、なんならちょっと参拝する自分を滑稽に感じながらお参りやお祈りをしているかもしれない。
それならなぜ祈るのか、あらためて考えると難しい。
だけど一度だけ、もしかしたら祈りはどこかに通じてるかもしれない、と思ったことがある。
数年前に家族でロシアを再訪した時。
セルギエフ・ポサートというモスクワ郊外の寺院で、私と家族は、ロシアに住んでいた頃お世話になった人々のために祈った。
本当は再会も目当ての旅だったのに、探してみたらすでに亡くなっていた人達。
ろうそくをもらって、その寺院の中の祭壇でその人たちを想って祈った時に、それまで晴れていた空が突然大雪を降らして、ホテルの窓から小さな虹が見えた。まるでその人達が挨拶に来てくれたみたいに、雪は私達が寺院を離れると降りやみ、虹は私達が気づいた後でゆっくりと消えた。
(詳しく書いた記事はこちら→http://mosukuwakanu.blog122.fc2.com/blog-entry-648.html)
ただの偶然だと言ってしまえばそうだけど、私はその時起きたことを今も大切にしている。
雪や虹を見せてくれたのがあの人達だったらいいなと思っている。
そういう希望がもてるから、私はいまだにお祈りをするし、叶いますようにと、どうせ叶わないの間でフラフラ、フワフワしている。
